江戸。世界の歴史上「火災都市」とも呼ばれるほど火事が多かった。そんな町で起きた三つの大きな火事についてご紹介します。
江戸三大大火とは
- 明暦の大火
- 天和の大火
- 文化の大火
いずれも火事が発生した年の年号にちなんで呼ばれます。
これからひとつずつ詳しくみていきます。江戸の三大大火とは。燃ゆる乙女の恋心か人口密集型都市の定めか。
引用元:ウィキメディア・コモンズ
江戸三大大火
そもそも三大大火以外にも多くの大火に見舞われていた江戸の町。
見舞われすぎて当時の町人たちは「火事は起こるもので仕方がない」と割り切って生活していたほど。防災の意識が低かったことから世界三大大火をも引き起こしてしまいました。
明暦の大火
日本のみならず海外でも類をみない大惨事として世界三大大火に数えられる明暦の大火。
江戸市街の約6割を焼き、6万人~10万人とも推定される犠牲者を出した大火災。東日本大震災と戦争を除き日本史上最悪の災害。
この年の干支から丁酉火事、出火原因から振袖火事ともよばれる。
出火原因
明暦3年(旧暦1月18日~20日)に出火。
最初の火元は本郷丸山。
※この火事の最大の特徴として同時期に3か所から出火したことがあげられる。
1月18日14時ごろ丸山の本妙寺から出火。神田、京橋に燃え広がり隅田川の対岸にまで及んだ。
1月19日10時ごろ小石川伝通院表門下、大衆与力の便所より出火、飯田橋に延焼、江戸城は本丸を含む大半が焼失。
1月19日16時ごろ麹町5丁目より出火。
この3か所から燃え広がった火事が大規模を焼失する原因になったとして学者の中には「放火説」を唱える者もいるが広く知られているのは「振袖火事」のエピソード。
振袖火事
麻布の裕福な家の娘・梅乃(17歳)が本郷の本妙寺に墓参りに行った帰りに上野の山ですれ違った寺の小姓らしき美少年に一目ぼれ。この日から寝ても覚めても彼のことが忘れられず、食事ものどを通らなくなってしまう。
名前も身元も分からない相手ではどうしようもなく、せめて彼が着ていた着物と同じ柄の振袖をと両親に頼んで作ってもらう。
その振袖を抱いて思いを馳せる毎日。
やがて恋の病が悪化、梅乃は若くして死んでしまう。
両親は不憫な娘のためにその棺に形見の振袖をかけてやった。
棺にかけられた遺品などは寺男たちがもらってもいいことになっていたので、この振袖は転売され、上野の町娘・菊のものになった。
ところがしばらくして菊も早世。振袖は彼女の棺桶にかけられ、本妙寺にもちこまれた。何の因果かその日は梅乃の命日であった。
寺男たちは再度その着物を売った。次に手にしたのは別の町娘・いく(16歳)。しかしこの娘も間もなく病に倒れ、返らぬ人に。振袖は彼女の棺桶とともに本妙寺に舞い戻った。
さすがに気味が悪くなったのか寺はこの振袖を焼いて供養することにした。住職が御経を読み上げながら護摩の火の中に振袖をなげこんだところ、北方から一陣の狂風が吹きおこり、裾に火が付いた振袖は人が立ち上がったような姿で宙にまいあがった。
寺の軒先に落ちた火はたちまち大屋根を焼き、風にあおられて町に広がり、やがて江戸中を焼き払った。
天和の大火
天和の大火(てんなのたいか)は天和2年12月28日に発生。駒込の大円寺から出火、翌5時まで延焼し続けた。死者は最大3500人余と推定される。
天和の大火ときいてピンとこない人でも八百屋お七は聞いたことがあるのではないでしょうか。
八百屋お七
天和の大火で焼け出された江戸本郷の八百屋の娘・お七は家族とともにある寺に避難した。そこで寺の小姓と恋仲になる。やがて店が再建され、お七は家族とともに寺を出たが、それから小姓への想いは募るばかり。
もう一度火事が起きたらまた寺に行けるかもしれないー。
彼に会いたい一心で自宅に火をつけた。火はすぐに消し止められ、ボヤですんだが、お七は捕まり、火あぶりの刑に処せられた。
文化の大火
文化3年3月4日に発生した文化の大火は干支にちなんで丙寅の大火とも呼ばれます。芝の材木座付近から薩摩藩上屋敷(現在の芝公園)を焼き、増上寺五重塔を全焼。
さらに強風にあおられて燃え広がり、京橋、日本橋の大半を焼失。
神田、浅草方面まで焼き払った。死者は1200人とも。
江戸三大大火まとめ
今回は江戸の三大大火についてでした。江戸という町は木造の家が密集しており、材料が木と紙という燃えやすい素材、一軒が燃えるとまわりの家に火が移りやすい環境がそろっていたことがたびたび大火をひきおこす原因になっていたと考えられています。
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