東京消防庁の出初式(でぞめしき)は迫力があるなあ。
今日は出初式(でぞめしき)!
後ほど解説していきます。
今度は海で放水訓練。
おおおー。
うおおおー
消防艇の放水もすごいねえ。
あ~見応えがあった。ところでデゾメシキってなんだ?
仕事始めの行事さ。毎年各地でやってる。
あなたのお近くの消防署でも今朝やっていたかもしれません。
一般的には1月6日にやることが多く、日にちは署により多少前後するようです。
というわけで今日は出初式について。
日本の消防署で新春に行われるイベント。
会社でいう所の新年の朝礼のようなものです。
出初式
日本の消防関係者により1月初旬に行われる仕事始めの行事。元は江戸時代の火消により行われていた。
冬は火事が多いから気合いれてこーぜ的な集会だった元は。
派手に放水するような儀式じゃなかったんだね。
現代では放水や避難救助などの消防演習。
はしごのり、木遣り歌などの伝統技能の披露、消防車のパレード、また消防隊の功労者に対する表彰などが行われています。
※地域により内容は様々。
出初式はいつ始まった?
出初式はいつから行われているのでしょうか。
江戸時代、万治2年1月4日、上野東照宮で火消により行われたのがはじまりと言われています。
火事と喧嘩は江戸の華!
そう揶揄されるほど燃えやすい町だったんだ。世界をみてもこんなに何度も景気よく燃えた町は無いんだよ。
そうなのか? 華じゃなくて恥じゃないか
江戸時代に始まった
町民にとってある種のイベントでもあり、対岸から紅葉を見物するように火事をみていたとも言います。
対岸の火事ってそういう?
燃えているのが自分の家だったら見物どころではないだろうがな…。
街を直すのに莫大な税金がかかるので幕府にとっては頭痛の種でした。何とかしなければと「火消」を作ります。現代でいうところの消防団ですね。
火消っていうと「め組」の辰五郎。
そういうイメージだよな。町の火消しっていう。でも最初はお侍さんがやってたんだよ。
武家火消と大名火消
最初に作られたのは武家火消。
武士による火消。
その後、大名火消が誕生しました。
だいみょー…ひけし?
有名な所に赤穂藩があるな。「忠臣蔵」知ってるか?
もちろん赤穂四十七士!
討ち入り時の装束は火消し装束なんだよ。赤穂の浅野家は大名火消だ。
江戸城で刃傷沙汰に及んだとして切腹を命じられた浅野内匠頭。
の、おじいちゃん。浅野長直。
大名でありながら大火事の現場に自ら飛び込んでいって延焼を防いだという。いわば火消し界のヒーロー。
孫の浅野内匠頭も熱血漢だったということかな
血筋なのかもな
江戸の民に慕われた火消の浅野。
赤穂(元)藩士たちに町民が優しかった、討ち入りに肯定的でなんなら陰ながら応援する者もいた、といわれるのはこういう背景があります。
当時火事に頭を悩ませていた幕府が浅野長直を招いて相談した結果、生まれたのが大名火消。
明暦の大火に武家火消敗れる
このように大名が率先して町の消火活動にあたる時代が続きます。
大きな転換期となったのは明暦3年に発生した明暦の大火。
明暦の大火
火勢をくいとめることができず、江戸城の天守閣を含む江戸の大半が焼失。3万~10万と推定される犠牲者を出し、江戸の歴史上最大の被害となった。
引用元:ウイキペディア
これで武家火消では大火事に対処できないことが明らかになり、幕府は制度を変更する。
翌年の万治元年、幕府直轄の消防組織「定火消」を制定。
旗本から4人の男を選び、与力や同心を36人をつけて幕府直轄の組織とした。
大名にだけ任せるのではなく幕府でも火消しを作ったんですね。
じょーびけしは東京消防庁のモトみたいなもんだね。
出初は復興のシンボル
翌万治2年1月4日。
東京消防庁のモトが上野東照宮に集まって気勢を上げた。この行動は出初と呼ばれ、大火後の復興作業に苦しんでいた江戸の民に大きな希望を与えた。
これが出初式の由来だ。
出初式の由来のまとめ
町民による火消、町火消が生まれるのはこれよりもずっと後の徳川吉宗の時代です。
将軍の腹心である大岡忠相が主導し、町を30区分に分けて48組の消防団に担当させた。そのひとつがみんなよく知る「め組」です。
というわけで今回は出初式について解説しました。
冬は空気が乾燥しているので火の取り扱いには十分に気をつけましょう。
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いま思ったけど明暦3年の次が万治元年って。明暦やけに短くないか?
明暦の大火のせいだよ。縁起が悪いから改号したんだ。昔は天皇が存命でも好きに変えられたんだ。
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