石狩沼田幌新事件・後半
(イシカリヌマタホロシンジケン)
前編はこちら🌫🌫🌫🌫🌫
大正時代の北海道石狩。ホロ新地区に住む人々が祭りから帰る途中、山道でヒグマに襲われました。一人が殺され、一人が土中に埋められ、さらに人々が助けを求めて逃げこんだ農家まで追いかけてきたヒグマは人間の女性をさらい、闇夜に姿を消しました。
※実話です。
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恐ろしい夜が明ける
8月22日
(この時点で死者・行方不明者3人)
妻子を奪われた三太郎はじめ、避難民らは恐怖に震えていた。銃の備えなどない農家。屋内に閉じこもって身を守るほかない。
夜が明けた。
事情を知らない村人が持地宅の近くを偶然通りかかる。
屋内にいた一団は大声で助けを求め、すでにヒグマが去ったことを聞くと転がるように外へ飛び出た。
明るみになる被害
三太郎の妻・ウメは近隣の藪の中で半身が無い状態で見つかった。
ヒグマに連れ去られた後、生きたまま食べられたのか。
土に埋められた林与四郎も発見された。彼はまだ息があったため、すぐに沼田市街の病院に運ばれたものの、後日死亡した。
新たな犠牲者
8月23日
(この時点で死者3名)
この恐ろしい惨劇はすぐに沼田町全域に知れ渡った。
熊撃ち名人として名高い砂澤の耳にも入り、彼をはじめ雨竜村(現在の雨竜町)に住むアイヌの狩人たちが応援に駆けつけたので村人たちは彼らに希望をたくす。
狩人の一人、長江(56)は凶悪なヒグマの話を聞いて憤慨し、「そのような悪い熊は自分が仕留めなければならない」と、周囲が止めるのも聞かずに単身でヒグマの山に入っていった。
そして山中で数発の銃声を響かせたきり、彼は戻ってこなかった。
ヒグマの最期
8月24日
(この時点で死者3名、行方不明者1人)
軍人、消防団、青年団など総勢300人あまりの応援部隊が幌新地区に到着した。さらに近隣の集落民から60歳未満の男子が残らず出動し、村始まって以来のヒグマ討伐隊が結成された。
討伐隊が山中に分け入ってまもなく加害ヒグマが現れ、討伐隊の最後尾にいたメンバーを一撃で撲殺。
怒り狂ったヒグマは他のメンバーにも重傷を負わせ、咆哮を上げながら、なおも人間たちに襲いかかろうとした。
その時、除隊間もない軍人が放った弾が命中。
さらに鉄砲隊の一斉射撃。
ヒグマはついに倒れた。
この現場のすぐ側で、23日に行方不明になった熊ハンターの長江が、頭部以外をすべて食い尽くされた状態で発見された。共に回収された彼の猟銃は折られていたという。
こうして惨劇は幕をおろしたのだ。
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石狩沼田幌新事件のまとめ
今回は石狩沼田幌新事件をとりあげました。まるでホラー映画のような内容ですが、これは本当にあった話。
ヒグマ事件をとりあげるたびに、「食べ物への強い執着」が焦点になります。今回ヒグマが人間を襲った原因でもあるので最後にその点について触れておきましょう。
原因はエサが近くにあった
クマは草食よりの雑食性。
主に木の実・山菜・果物などが主食。他には小動物、シカ、鮭なども食べます。ここに人間は含まれません。
実は最初に夏祭り帰りの一行がヒグマに遭遇した時、近くに斃死した馬の死体が埋められていたのです。
これを食べていたヒグマに「自分のエサを奪う悪い敵が現れた」と見なされたのが原因でした。
ヒグマは自分の持ち物に対して深い執着心をみせます。
福岡大学ワンダーフォーゲル部の事件では熊にとられたリュックを取り返した大学生たちが執拗に追いかけられ、3人が命を落としています。
以上のことから石狩沼田幌新事件では人間側にヒグマの襲撃を回避することは困難であったと思われます。当時は開墾中だったこともあり猟師をすぐに呼ぶこともできなかったため、不運としかいいようがありません。
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